平谷村の歴史

平谷のはじまり~戦国時代

平谷がいつ開かれたかなどについては文献がなく、謎に包まれていますが、京都の真言宗の古刹、理性院の厳助法師が天文2年(1533)に飯田からの帰り、「比良屋」に立ち寄ったとする文献が、平谷が文献に登場する最初です。
 武田信玄によって三河進出のための軍用道路として開発された伊那街道沿いの平谷には、平谷宿が生まれました。
 信玄は、支配下の伊那軍の諸士が東海の勢力と通ずるのを警戒し、各地に関所を設置しました。平谷には滝之沢御関所(とっぱせの関)が設置されました。とっぱせとはいわば「突端瀬」で、山が川にせりだした一番端っこという意味です。同じく信玄によって築かれた滝之沢城とともに、平谷に残る戦国時代の遺跡です。

宿場町

馬追いの装束
江戸から明治にかけて、平谷は幕府の伝馬制度による宿駅としての宿場として、また内陸部の重要な荷物運搬手段「中馬」のための、馬屋を備えた馬宿が発達し、宿場町として栄えました。旅籠屋が立ち並び、粋に着飾った馬追いたちが、信州と三河・遠江・尾張を行き交いました。現在は、村の各地に点在する馬頭観音が当時を偲ばせます。

中馬(ちゅうま)の始まり

江戸時代、八王子周辺の百姓が自家の野菜や穀物を馬で運び出し、その帰りに塩や魚などを持ち帰り、馬稼ぎをした習慣が各地に伝わったものとされています。その習慣が運搬業として各地に定着し、特に甲州・信州では「中馬」と呼ばれるようになりました。中馬の呼称の由来は定かではありませんが、「賃馬」「中通い馬」「中買馬」などから来ているといわれます。農閑期の百姓の副業として始まったもので、江戸後期~明治にかけてもっとも盛んに行われました。
 中馬は信州全域で行われていましたが、特に伊那谷は中馬のメインストリートでした。木曽を通る中山道は参勤交代など幕府の目的に使われることが多くいろいろ面倒であったのに対して、伊那谷を通る脇往還(脇街道)であった伊那街道はそういう面倒も少ないために、中馬が栄えたとされます。
 信州から外へは、米穀類・紙・たばこ・酒など、外から信州へは塩・茶・魚・繰綿などが運搬されました(道路によって荷物は違う)。
 中馬は、他地域に比べ遅れていた伊那谷に商品経済をもたらし、都市の発展、さらに養蚕など農業・工業と相関的に発展していきましたが、汽車・自動車など近代的な交通手段の発達に伴い、衰退していきました。

歌舞伎(地芝居)

平谷歌舞伎
街道の宿場町として栄える中で、江戸時代に村の若衆たちが旅芸人から学び、地芝居として定着したとされる「平谷歌舞伎」は、現在でも「珍珍幕府~秋の陣」で上演され、大変好評です。
旅芸人による村芝居が平谷でも行われ始めたのは文政・文久(1850~1860)頃。当時は幕府の禁令に触れないように、祭りに事よせて興行芝居を請けて村民の娯楽としていたのでした。その旅芸人から村内の芝居好きの青年達が教えを受けて、見よう見まねで始めたのが平谷の地芝居でした。しかし一本立ちの郷土芸能としては発展しません。飯田などでは旅芸人がいて興行を始めていたので、その興行芝居を招いたほうが手っ取り早く、見栄えも良かったので人気でした。愛好家たちは大鍬祭りの余興として地芝居を継承してきたのでした。
 その執念は昭和に入りようやく実ります。青年会によって、大鍬祭りの余興であった座敷芸から独立して、地芝居が一本立ちしました。その後戦争によって一時中断しながらも昭和47年には村の無形文化財に指定され、過疎化など社会情勢の影響を受けることもありましたが、子供歌舞伎の発足もあり、今日も村の恒例行事として村内外から注目されています。

林 芋村[芳弥] (はやし うそん)

平谷尋常小学校で教員を勤め、教育に対する情熱や苦悩を多くの短歌に残しました。
 
「深雪せる野路に小さき沓の跡われこそ先に行かましものを」
平谷から売木村へ向かう道ばたの入川地籍にこの歌を刻んだ歌碑があります。この歌は、林芋村先生が雪の朝、今の平谷湖のそばの入川の家から学校へ行こうとするとき、わら沓で深い雪を踏んでいった子どもたちの小さな足あとを見つけ、厳しい冬の朝にも、黙々と自分より先に学校に向かっていった子どもたちへの愛情と自責の念をうたったものです。
林芋村の碑
 林芋村(本名・林芳弥)先生は、千代(現在の飯田市)に生まれ、大正4年(1915)から平谷に代用教員として勤められ、昭和4年4月2日までの15年間という長い間、平谷の学校で教鞭をとられました。芋村先生は、昭和4年4月3日植林デーの日に、息子さんと二人で植林作業中、太い古木の下敷きになってしまい44歳の若さでなくなられてしまいました。
 芋村先生は苦労して尋常科正教員の資格をとりました。(大正11年12月)そのころの教員資格は、試験に合格することによって、次々と上級の資格へ進んだのです。芋村先生が代用教員から、尋常科正教員の資格をとるまで何年もかかって苦労したのは、先生の頭脳のせいではなく、お金と時間の余裕がなかったからでした。芋村先生は、年老いた母と子どもを養育し、谷間の畑を開墾しながら、平谷の子どもたちの教育に情熱を注ぎました。よく詠まれた短歌の中にも、このような「貧乏ひまなし」の状態の中で、独学で努力した歌が残っています。
出典:平谷村誌、民俗資料選集・中馬の習俗(文化庁文化財保護部編)

参考情報

資料館 夢ひらや
 
塩の道・中馬街道~平谷宿の歴史を物語る「中馬」「馬追い」の詳しい解説はこちらです。
壁画
 
中馬の様子が描かれています。

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平谷村教育委員会 TEL 0265-48-2211